あるコラムを紹介します。
日本がスポーツを体育とを混同したことについてです。



明治期、初代文部大臣を務めた森有礼は、「国民教育で重要なことは、知育・徳育・体育の3つである」とし、体育を義務教育に取り入れました。森は元外交官で、スポーツの母国、英国駐在でしたから、「スポーツと体育の違い」を理解していました。その上で、スポーツではなく『体育』を選んだのには理由がありました。当時、普仏戦争でプロシアがフランスに完勝し、ドイツ帝国が成立したことでドイツの体育を取り入れたのです。

ナポレオン戦争以降、大陸最強だという自負を持っていたフランスのプライドは、普仏戦争の完敗で粉々になりました。体協会長だったクーベルタン男爵は、スポーツを通じてフランスの若者を鍛える必要を感じ、『オリンピズム』の復活を唱え、近代オリンピックの開催に動きました。

勝ったプロシアでは、すでに『体育』が学校の必修科目で、軍事教練を兼ねており、軍隊から講師が派遣されていました。森文部大臣は、明治の日本にとって「兵士の養成」こそが急務であり、日本と同じ頃に帝国を樹立し、急激に勢力を伸ばしていたドイツを模範としたのです。

たしかに体育は兵士の教練には効果を発揮します。兵士は士官の命令を忠実に実行する者であり、自分勝手な判断は許されません(まさに『体育会系』です)。軍事教練の名残が、『敵』という言葉にあります(スポーツには『相手』はいますが、『敵』はいません)。

一方、スポーツはミドルマネジメント、つまり軍隊では将校を育成するためのパブリック・スクールとして完成したものです。将校は、個人として「考え、判断する能力」を必要とするのです。


■スポーツマンシップとは?
東京オリンピックの前年(1963年)に出版された『コーチのためのスポーツモラル』という本に、「スポーツマンシップとは何か」が、解説されています。要約して紹介します。

◆スポーツの主な価値はスポーツの精神すなわちスポーツマンシップにある。もしも学校スポーツの中にこの精神が存在しないならば、そこにはなんら価値も意義も認められない。

◆スポーツマンシップは、一言で言えば「尊重(respect)する」ことである。試合の相手を尊重し、審判を尊重し、試合の規則を尊重することだ。このことは、自分の行うゲームそのものを尊重することになる。

◆重要なのは、公正(フェアプレー)の精神である。これから「正義」、「規則に忠実」、「審判に従順」、「規律を守る」などが導かれる。そして自分が守るものとして、「最善を尽くし」、「勝って誇らず」、「負けて悔いない態度」、「明朗」、「責任」、「謙虚」、「勇気」、「忍耐」などが挙げられる。さらに競技者どうしがお互いに示すべきなのが、「同情」、「親切」、「協同」、「友情」、「敬愛」などであり、これらが統合されて良き人格(Good sport)になる。

◆スポーツマンシップは、他の「倫理」や「道徳」より一層現実的なものであり、スポーツマンは、これを修練して身に付ける機会に恵まれていることを見逃してはならない。



気をつけたいのは、スポーツマンシップを教えるのは、「扱いやすい態度」を身につけた「良い子」を育てることではない、ということです。これが「体育」との最大の差です。スポーツマンシップというのは「社会が求める人格的な問題」であり、「社会的な能力の源」なのです。

スポーツを通じてスポーツマンになることは、単に運動能力だけではなく、人格的能力に優れることを意味します。スポーツマンシップで問題にするのは、「型としての正しい振る舞い」ではなく、「正しい振る舞い」を導き出そうという「姿勢」であり、「覚悟」です。フェアなプレーそのものではなく、それを導きだす覚悟がスポーツマンシップなのです。「スポーツマンシップに則る」ということは、原則を理解し、尊重する覚悟がある)という意味なのです。

したがってスポーツマンシップとは、単にルールに従い、「期待される行儀の良さ」といったことではなく、一体どういう人間になるか、という、より本質的な問題につながります。そして、「考えること」が、言わば習慣になるように身に付ける機会がスポーツなのです。


■スポーツで「考える力」をつける
放っておくと、目の前で起こる事件や現象に対応することに終止してしまい、原理原則を欠いた対応になりがちです。それを繰り返すと、確かに器用さは身に付くでしょうが、周りに信頼されるリーダーにはなれません。それを避けるためには、意識を高くもって「原理・原則」を認識し、考えられるようにするトレーニングが必要です。もし勇気や自信を欠いているなら、勇気や自信を身につけるためのトレーニングが必要なのです。そして、スポーツはそのための最高のトレーニングなのです。

古代ギリシアの哲人アリストテレスは、「道徳というものは技術に似ている。それを習得するためには修練が必要なのだ」と述べています。なぜなら、倫理というものは極めて「行動的(Pro-Active)」なものだからです。「何が正しいか」を知っているだけでは「倫理」とは言えません。それが「実践」されて、初めて「倫理」となります。日本でも古来、「義を見てせざるは、勇なきなり」という有名な言葉があります。「すべき(=義)」だと考えても、それを行動に移さなければ、「勇(気)」は無いと言うしかありません。(脳の基本的な機能は、「整理と記憶」です。整理するための情報は、行動によって得ます。脳における「勇気」という部位は、「勇気ある行動」によってしか形成できないのです。)


■スポーツマンシップは自分への褒美
スポーツマンシップが必要なのは、スポーツが本質的にそれを要求するからです。スポーツは「ルールで規定された競争的な運動」であり、それを行うために一定の人格特性を必要とします。本来なら、スポーツマンシップなしにスポーツは成立せず、試合すら成り立たないのです。

私たちはどのような人間であり、どのように生きるのか、そして、われわれの子どもたちがどのように育っていくのか、スポーツマンシップはまさにそこを問題にしているのです。

私たちがスポーツマンシップという名で呼んでいる精神的な能力は、きわめて実践的かつ汎用性のあるものです。好ましい品格は試合に勝つためにも、ビジネスを行うためにも、友情を築くためにも役立ちます。しかし、それを単なる便宜的なものとして扱い、スポーツマンシップが本来持っている価値や機能を減少させたりしないように気をつけましょう。便宜的なものと、原理とは異なります。原理は原理ゆえに、生きる上であらゆる場面で適応が可能です。困難な局面であればあるほど、唯一の正解と言えるものが存在しません。そこでは、「考える」「判断する」という原理が不可欠なのです。

良いスポーツマンシップによって「褒美(実利)を与えられる」のかどうかは別として、良い品行はそれ自体が子どもにとって人生のためになりますね。つまり、「スポーツマンシップ自体が褒美」なのです。

豊かな社会は、良き市民を育成する以外に実現する方法がありません。スポーツマン(=GOOD FELLOW)を育成し、社会に供給することは次の世代に対する私たち大人の義務だと思います。私たちは今や、きちんとスポーツとスポーツマンシップを理解し伝えて行かなければならないのではないでしょうか。