錦織圭の父「中卒だっていいと思った」・・・

 錦織(にしこり)圭選手(24)が躍動した。13歳で単身米国に渡って10年超。全米オープン男子シングルスの決勝の舞台で、敗れはしたが、天才少年が超一流のアスリートに成長したことを、世界中に示した。彼の才能に誰が、いつ気づいたのか。それは、どのように育てられ、伸ばされてきたのか。

 生まれたのは島根県松江市。父の清志さんは森林土木関係の技術者、母はピアノ講師。大学時代、テニス同好会に所属していた清志さんが軽い気持ちで贈ったおもちゃのラケットで遊び始めたのが5歳。ほどなく市内の「グリーンテニススクール」に通い始めると、コーチの柏井正樹さん(54)はその非凡さに目をみはったという。

「まだ体も小さく、体力もなかったが、『もう少し長く』『ちょっと高く』『もっと低く』などと、ボールの軌道に対して指示を出すと、すぐにそのとおりの表現ができた。ボールコントロールが抜群でこれはすごいな、と」

 幼いながらに、気持ちの切り替えのうまさも際立っていた。

「圭はスイッチを持っているんです。コートの外では本当に穏やかで優しい子。それが試合になり、『絶対に勝つぞ』というスイッチが入ると、ものすごい集中力と負けん気が顔を出す」

 負けず嫌いは、テニス以外でも健在で、例えばテレビゲームでは勝つまでやりたがった。才能と勝利へのこだわりが上手に噛み合い、島根はもちろん、国内でも知られる存在となっていったという。

 2001年、小学6年のときには全国選抜ジュニア選手権、全国小学生選手権、全日本ジュニア(12歳以下)で優勝。史上5人目となる全国3冠を達成した。当時、錦織選手とダブルスを組んでいた松江市北消防署の的野貴介さん(25)は、

「当時から別格だった。スイングスピードも速くてショットが正確。試合ではいつもミスをする僕に淡々と付き合ってくれたという感じ。大人でしたね」

 家族も柏井さんも、錦織選手を試合以外でも積極的に外へ出した。松岡修造さんが主宰する合宿「修造チャレンジ」に参加すると高校生に勝った。海外遠征の話があれば行かせた。錦織選手が中学生になったころ、女子テニスの第一人者として活躍した杉山愛さんの母、芙沙子さんは、清志さんにこんな言葉をかけている。

「この子には、大きな器を用意してあげてください」

 杉山さんが言う。

「才能がずば抜けていることは母を含め、誰もが認めていた。ご両親はどう育てようか、迷っておられたと思うので、背中を押す一言になったのではないでしょうか」

 そして錦織選手はソニー創業者の実弟で、元副社長の盛田正明さん(87)が私財を投じて創立したテニスファンドの選抜審査を受け、強化選手に選ばれる。金銭的な援助を受け、米フロリダ州のテニスアカデミーへの留学が決まった。中学2年生、13歳のときだ。このときのことを清志さんはAERAの取材に、こう答えている。

「義務教育の途中でっていう不安はありました。でも、(中略)中卒だっていいと思ったし、リスクもある一方でテニスでトップになるには大チャンスだと思いました」

 長男の才能を誰よりも信じ、全力で応援していたことがよくわかる言葉だ。さらに、どんどん外へ出ることが「当たり前」になっていたせいか、コーチの柏井さんも、

「留学も、今生の別れという感じはなかった。大学生が地元を離れて東京の大学へ行く感覚でしょうか。楽しんでこいよと、明るく送り出しました」

 テニスファンドの強化選手として米留学をしたのは錦織選手含め、これまでに17人いる。留学後は毎年、ランキング目標を達成できなければ、支援を打ち切るという厳しい条件がつく。プロになるまで支援が続いたのは、錦織選手ら2人だけだ。

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